*ミントの人物伝その43[第295歩・晴]

今回の人物伝は、う〜んとくだけた調子でお届けします。
怒らないで読んでください。


ミントの人物伝(その43)


バーブル(1483-1530)
ムガール帝国の初代皇帝。


名前はバーブル。バブルではない。
1483年、中央アジアのフェルガナ(現在のウズベキスタン)で生まれる。


バーブルの父親はティムールから4代目の直系子孫。
そして母親はあのチンギス・ハーンの子孫だという。
ティムールは、14世紀に中央アジアを征服した英雄。
チンギス・ハーンは、言わずと知れた13世紀のモンゴル帝国初代皇帝である。


何という血筋の良さだろう。血統書付きのサラブレッドである。
そういえば歌手の加山雄三も、維新の元勲岩倉具視の子孫なのだ。
ぜんぜん話が違うか。


1494年に父、ウマル・シャイフが死亡すると、跡を継いでフェルガナの領主となる。
バーブルはまだ子供だったが、このため否応なく、ティムール朝内部の勢力争いに
巻き込まれてしまう。


−負けるもんかい、この俺様の血筋の良さを見ろ−
血筋の良い彼だったが、ときにはこんな乱暴なことを言った。


バーブルは勇敢だったが、書物にも親しむ青年に育った。
ティムール朝内部で力をたくわえ、次第に有力な存在になってゆく。


バーブルは、ティムール朝首都のサマルカンドを数度領有して、この地を愛していたが
1504年、シャイバーニー・ハーン率いるウズベク族が侵入し
彼はサマルカンドから追われてしまった。


−畜生、覚えてろ。必ず取り戻してやるからな−
血筋の良い彼だったが、ときにはこんな乱暴なことを言った。


バーブルはめげない。
そのあと代替地として、アフガニスタンのカブールを占拠する。


1511年に一度サマルカンドを奪回するが、
翌年春にはまたこの地を放棄することになってしまう。
バーブルはイスラムシーア派だったので、その支配を嫌うスンニー派サマルカンド住民の
反抗を招いてしまったのだ。


バーブルはサマルカンド奪回をついにあきらめる。
方針を変えて、カブールを中心にアフガニスタン周辺の支配を固め
インド方面への遠征を行なうようになった。


1519年、インダス川を越えてパンジャーブ地方に侵入する。
1524年にはラホールを、1525年にはパンジャーブ地方を占領する。


1526年、インド北部を治めていたロディー朝のイブラハム・ロディーが攻めてきた。
その兵数は10万人。
かたやバーブル軍は2万5千人。危(あや)うし、バーブル。


ところがバーブル軍は、強力に組織された騎兵隊を持っていたうえに
火縄銃や大砲を保有していた。
バーブル軍は、激戦のすえ、ついにロディー軍を打ち破ってしまう。
パーニーパットの戦いである。


その勢いのまま、バーブルはデリーアグラを占領してしまい
ついに皇帝になってしまった。
ムガール帝国の建国である。やるな、バーブル。


さて、皇帝になったバーブルだったが、インドを好きになれなかった。
マスクメロンが食卓に出たときには、故郷のサマルカンドを思い出し
ほろりと涙を流したという。


−あ〜あ、帰りたい。サマルカンドへ−


自分がインドを奪っておいて、嫌いだなんてずいぶん勝手な話である。
でも血筋が良い人間は、よその土地を占領したことなど
少しも悪びれないのだ。


バーブルは気分をまぎらせようと詩集を出したり、自伝バーブル・ナーマ』を書いたりした。
きっとこの自伝には、インドの悪口がいっぱい書いてあるに違いない。


4年後、子供のフマーユーンが重病になった。
宮廷の占い師がバーブルに言った。
「一番大切なものをあきらめれば、皇子の命は助かる」と。


血筋の良いバーブルは子供思いだった。
−息子の命を助けたまえ。私の命に替えてもかまわない−


するとアラ不思議、息子は回復したが
今度はバーブルが病気になり、そのまま死んでしまったという。


1530年12月26日のことで、47歳だった。
血筋の良い彼だったけど、最後はなんだか寂しかったね。


バーブルが創りあげたムガール帝国は、彼の生前は混乱していたが
孫のアクバル帝の時代に、ようやく基礎固めが出来上がることになる。


次回の人物伝はもう少し真面目に書きます。
たぶん。



(参考文献)
Wikipedia
画像はWikipediaから借用いたしました。