ミントの人物伝その68−1〔第580歩〕


ダショーと呼ばれ尊敬された人物がいました。


ミントの人物伝(その68−1)
ー文章中の敬称は略させていただきますー


西岡京治(にしおかけいじ、1933〜 1992)。
農業指導者、植物学者。

1933年(昭和8年)、日本統治時代の京城(現・ソウル)で生まれる。
戦後、帰国して大阪府八尾市に移住。
大阪府立大学農学部から同大学院農学研究科に進み、
中尾佐助助教授に師事する。
1958年(昭和33年)、大阪市立大学西北ネパール学術調査隊に参加
1962年(昭和37年)、同、調査隊に副隊長として参加。


西岡の師である中尾助教授は
1958年(昭和33年)、日本人で初めてブータンに招かれた学者である。
そのときブータンのドルジ首相から農業技術者の派遣を要望された。

「わが国民の大半が農業に従事しています。
ところがブータンは山や谷が多くて平地があまりありません。
耕作地の比率が一割程度しかないので、食料自給率は60%程度です。
農業技術の向上でなんとか自給率を向上させたいのです」

聞いた中尾は西岡のことが頭に浮かんだ。

ー彼は温厚、誠実だし努力家で粘り強い性格だ。きっとブータンでお役に立つだろうー

帰国した中尾から、君を推薦したい、と聞いた西岡は胸が高鳴った。
じつは彼自身も希望していたことだった。
ネパール学術調査の際、この地方の農民たちの状況をつぶさに見ていて
なんとか農業技術指導により、彼らの貧しい生活を豊かに変えられないものだろうか
と思っていたのだ。


1964年(昭和39年)、中尾の推薦もあり、正式に西岡のブータン派遣が決定し
海外技術協力事業団の農業指導者として、夫人とともに赴任することになった。



ブータンヒマラヤ山脈の南側に位置し、北は中国、南西はインドに接していて
九州と同じくらいの面積を持つ国である。


西岡はブータンパロに入った。
彼がそれから28年、農業技術指導に携わる地だ。

ところがインド人が大半を占める開発庁農業局に行ってみると
よそ者だとばかりに冷遇を受け、職員からも拒絶するような態度を取られた。
遠い日本から来た人間なんかにブータンのことが分かるものか、
といったところだろう。

まさに前途多難。第一、まず試験農場すらなかった。
西岡の最初の仕事は、政府に掛け合って土地を借り受けることだった。
そして実習生を付けてくれることも要望した。

ところが提供されたのは、わずか2百平方メートル(約60坪)の荒れた土地。
それに実習生はなんと12・3歳の少年3人だ。

あきらかないやがらせだったが、西岡は落ち込むことなく
少年たちとともに、そこで大根を作ることから始めた。

なぜ大根を選んだかというと収穫が早いからだ。
そして昼夜の寒暖差が大きいほどよく育つので
ブータンの気候風土に適していると考えたのである。

なんとか目に見える結果を早く出さなければならない。
樹木を切り、土地を耕し、水利をはかって大根の種を植えた。

3ヶ月後には、それまで誰も見たこともないような大きな大根が実った。

歓声を上げて喜ぶ3人の少年たち。
彼らはやがてブータンの農業を担う人材に育ってゆくのである。


西岡の成功を、ブータン政府が何より喜んでくれた。
そして政府の命令で、今度は試験農場を水はけの良い高台に移してくれた。
耕作地面積も3倍である。
農業局ではなく政府自体が動いてくれたのだ。

水利が良い新しい農場では色々な野菜作りに挑戦し
結果、見事な野菜が育ってゆく。

この噂はブータン国内で広がった。
ブータンの知事や議員たちも、試験農場に視察に来るようになった。

「なんてうまいんだ!」

食べて感動した議員の働きかけにより
ブータンの国会議事堂前で、試験場で育てた野菜を展示することになった。
そこでも西岡の野菜は大評判となる。


噂が噂を呼び、ついにはブータン国王から
「ニシオカ氏にもっと広い農場用地を提供せよ」という勅命が下される。

西岡は喜んだ。
ブータンに来て、これほど嬉しいことはない」


国王から与えられた新しい農地は「バロ農場」と名付けられた。
元々ここは王室に由緒のある土地だったという。

西岡は、闘志を燃やした。
好意を示してくれた王室のためにも頑張らなくては。
2年の滞在予定期間を延長してもらい仕事に打ち込む。


1971年(昭和46年)、西岡は稲作の指導を本格的に始めた。

ーここの気候・土地は日本的な稲作方法が可能だ、だが・・ー

それまでブータンでは田植えの際、農民が苗を勝手気ままに植えていた。
そのため
雑草を駆除しにくい、
苗の苗との間の風通しも悪くなり収量が増えない、
などの問題があった。

解決するには縦横一定間隔に植える「並木植え」が効果的だが、
日本では普通に行われているその方法を、ブータンの農民たちは知らなかったのである。

並木植え(日本)


西岡は、村人たちに再三、並木植えを指導した。
けれど村人たちは、昔からこのやり方だ、と言ってとりあってくれない。
何度も村人たちと話し合いをした結果
ようやく一部の若者が、バロ農場でためしてみよう、と言ってくれた。

もしも米の収量が上がらなければ、西岡の信頼は一気に失われてしまう。
西岡は祈るような気持ちで、稲の生育を見守った。

その結果・・
バロ農場では従来型の植え方の田と比べて、なんと40%もの増産に成功する!
村人達は驚き、かつ喜んだ。

農場への見学者はどんどん増えた。
それとともに、パロ盆地では並木植えが次第に普及し、米の収穫量が増えてゆく。

西岡は農民たちの信頼を集め
やがて「神のクワを持つ男」と呼ばれるようになった。


1975年(昭和50年)、ある人物が訪ねてきて言った。
「ニシオカさん、お願いがあります」
19歳の若き国王、ジグミ・シンゲ・ワンチュクだ。

「あなたのおかげでパロ地区の農業は大きく改善しつつあります。
今度はシェムガン県を指導してほしいのです」

「シェムガン県?」


西岡にとって、それは新たな試練の始まりでもあった。


(続く)



[平成26年の記録]
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[平成24年の記録]
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[平成23年の記録]
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[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
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