ミントの人物伝その77〔第711歩〕

「どこが欲しい?申してみよ」
秀吉は尋ねました。
すると男の答えは意外なものでした。


ミントの人物伝(その77)



亀井茲矩(かめいこれのり、1557−1612)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
因幡鹿野藩初代藩主。



尼子の家臣湯永綱(ゆ・ながつな)を父とし
出雲で生まれ、湯新十郎と名乗る。

しかし10歳の時に主家が滅亡。
一族郎党は離散の憂き目に遭い、少年時代に流浪の身となる。

1572年(元亀3年)まで旧臣の家で養われ、同年末に出雲を去って
因幡の山宮(気高町)の井村覚兵衛の所に身を寄せた。

だが、1573年(天正元年)夏、尼子勝久山中幸盛らの因幡進攻を知り、
桐山城に幸盛を訪ねて、尼子再興のためにともに戦うことを誓った。
山中幸盛とはあの山中鹿之助のことである。

1574年(天正2年)、幸盛は茲矩への信頼を高め、自らの養女時子を娶らせて
義兄弟の関係となった。
これ以降、茲矩は妻の実家である亀井の姓を名乗るようになる。


上月城の戦いで尼子軍が毛利を迎え撃ったとき、
茲矩は救援にきていた羽柴秀吉のもとにいた。

しかし、織田信長が秀吉の援軍要請を無視したため
上月城の尼子軍は孤立する。
絶望的な状況のなか、幸盛に脱出を勧めるために秀吉の使者として
決死の覚悟で城内に忍び込んだのが茲矩だった。

だが、幸盛は
「自分だけ脱出しても残った兵が死ぬことになる」
と脱出を拒否した。
茲矩はともに上月城で死ぬことを懇願したが、
幸盛の命により秀吉の陣に戻った。

結果、尼子は降伏し、幸盛は護送中に暗殺されてしまう。


これ以降は、茲矩が幸盛に代わって尼子旧臣を束ねる立場となり、
秀吉の配下となって活躍するようになる。

茲矩は鹿野城の守備戦や鳥取城攻略で戦功を挙げたため、
因幡国鹿野城主に任命され、1万3,500石を領した。

茲矩は流浪の身からついに大名となったのである。
さらに以後の活躍によっては、出雲半国を与えられることも
約束された。

ところが、である。
本能寺の変』直前までは毛利軍と戦っていた茲矩だったが、
中国大返し実現の為、秀吉が毛利家と和睦したことにより
この約束が叶えられなくなった。

このことを気にした秀吉が、代わりの恩賞の希望を聞いてきた。
「すまぬ茲矩。かわりの国をとらせたいが、希望があるか?」

すると茲矩は琉球を賜りたい 」と答えた。

秀吉はまじまじと茲矩を見つめたあと、
破顔して言った。
「よかろう。希望をかなえよう」

そして『亀井琉球守殿 』
と書かれた扇を茲矩に授けたのである。


おかしな話だ。
このとき正式な官位に「琉球守」というものは存在しなかった。
ましてや当時は、琉球はおろか九州ですら、まだ秀吉の支配が及んでいない。
空手形になる可能性が高かった約束だと思う。

だが茲矩は本気だった。
琉球を手に入れることで貿易による利益を見込める。
実際こののちも、秀吉に琉球出兵の許可を願い出るのである。

そして茲矩の熱心さに負けて、
秀吉もついに琉球出兵を許可するのだが
結局、琉球支配下に置きたい島津家の妨害で
出兵は実行されなかった。


扇についてはさらに後日談がある。
大事な秀吉からの拝領品だったが、文禄の役に参加した際に、
なんと李舜臣率いる朝鮮水軍の攻撃によって奪われてしまうのだ!

茲矩は失態を犯したことになるが、特に罪を問われなかった。
まあ物が物だから
秀吉も強くは言えないだろうね。


秀吉の死後は徳川家康に接近して、関ヶ原では東軍に属した。
戦後は功績によって加増され、
鹿野藩の初代藩主として3万8,000石を領している。


茲矩は、銀山経営、干拓や用水路開設などに手腕を発揮したとされるが、
また一方で、領内の60歳以上のお年寄りを城内に招いてもてなし
非常に喜ばれたといわれる。

城内に大きな会場建物を建て、酒や料理をたくさん出して
若い娘に給仕をさせ、十分に飲み食いをさせたのだ。

お土産の福引もあった。
なんと空くじなしで
米・麦・大豆・小豆・粟・稗(ひえ)それぞれ1俵が賞品だった。

「与作は米1俵じゃ」
おおー。
「田吾作は稗1俵じゃ」
ひえー。
こんな場面があったかもしれない。


また茲矩は城下の町々をよく早朝から見廻っていたが、
鍛冶町の貧しげな鍛冶屋がいつも早暁から働いているのを見て、
奇特な鍛冶屋である、と褒美に米2石を与えたりもした。

領民のことを慈しむ領主だったといっていいだろう。


徳川の世になっても、茲矩は幕府の許可を得て朱印船貿易を行い、
遠くシャム(タイ)とも交易を結んだという。
彼はやはり『琉球』のことを忘れてはいなかったのだ。


1609年(慶長14年)正月
茲矩は隠居して、家督政矩(まさのり)に譲った。
この年政矩は、伯耆国久米・河村両郡(東伯郡)の内5,000石を加封され、
亀井家の所領は4万3,000石になった。


1612年(慶長17年)正月、茲矩は鹿野城で病没する。
56歳だった。


1617年(元和3年)、亀井家に石見国津和野(島根県)に転封の幕命が下る。
政矩は移封のとき、父の木像とともに津和野城に入城した。
この木像は現在も津和野の永明寺の御霊屋にまつられているという。


成り上がり大名にもかかわらず領民のことを大切にした。
またいかなる時期でも海外との交易に熱心だった。
面白い人物ですね。


(参考文献)
Wikipedia
戦国武将のリストラ逆転物語
亀井茲矩公没後400年記念事業HP
画像は亀井茲矩公没後400年記念事業HPから借用いたしました。



[平成28年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20161231


[平成27年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20151231


[平成26年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20141231


[平成25年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20131231


[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230


[人物伝]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20140930


[YAMAPの記録]
https://yamap.co.jp/mypage/199626



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