ナポレオンとベルナドット7[第1,129歩]

ナポレオンは近代国家の基礎を築いたともいえます。

しかしその方法がまずかったのです。

ナポレオン戦争での死者数は300万人以上ともいわれます。

 

 

ナポレオン・ボナパルト(1769年-1821年 )

皇帝ナポレオン一世(在位:1804年-1814年、1815年)

 

ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット1763年 - 1844年

スウェーデン王太子カール・ヨハン

 

 

ナポレオンがエルバ島に流されてから、フランスでは前国王の弟、

ルイ18世が即位して国王となった。

だが彼は貴族重視の政策をとり、フランス議会の決議など

ほとんど無視したので、すぐに人心が離れていった。

 

アレクサンドル1世は、ルイ王朝は早晩倒れるだろうと言っていたし、

メッテルニヒは「ナポレオンはエルバ島から2年以内に戻るだろう」と

予言していた。

 

ナポレオンだが、小さな島とはいえエルバ島の領主になったので、

それなりの待遇は保証されていた。

だが、このまま終わりたくはない、もう一度軍隊を率いて戦いたい、

という気持ちが日々強くなっていった。

やはり彼は根っからの軍人だったのである。

 

1815年2月26日、

ナポレオンは約千人の部下を引き連れ、エルバ島から脱出した。

そして3月1日、対岸のアンティーブの近くに上陸する。

そして北に進軍する間に少しずつ兵隊がふえていった。

 

3月7日、グルノーブル近くのラフレでフランス政府軍と出会ってしまう。

そのときナポレオンは

「君たちの皇帝を撃てるのか?殺したければ撃ちたまえ!」

と声をはり上げた。

すると政府軍の中から「皇帝万歳!」の声が上がった。

 

ナポレオンの軍勢はふくれ上がり、進軍途中の各地の首長たちも

次々にナポレオンに忠誠を誓う。

 

3月9日にグルノーブルを出発。リヨンを経由して

3月20日にはパリに戻り、ふたたび帝位につく。

ルイ18世は国外に遁走してしまった。

 

さて復帰したナポレオンだが、

もはや諸外国と以前のようには戦えないと判断し、自由主義的な新憲法

制定し、批判的な勢力との妥協を図った。

そして連合国に講和を提案したが拒否され、結局ふたたび戦争になる。

 

1815年6月18日、ワーテルローの戦い

ウェリントン率いるイギリス・プロイセン連合軍に敗北し、

ここにナポレオンの百日天下は終わった。

 

ウェリントン

 

ワーテルローの戦い

 

ナポレオンはふたたび退位させられ、今度は南大西洋の孤島

セントヘレナに配流されることになった。

 

ここで彼は死去するまでに、膨大な回顧録を残すことになる。

 

ー私は革命の精神をヨーロッパ中に広めようとして戦ってきた。

そのことに悔いはないが、結局残ったのは法典ぐらいかー

 

ー部下たちもみな死んでしまった。ベルナドットは生き残ったが。

ふん、あやつはいい国王になるかもしれんなー

 

 

1821年5月5日、ナポレオンは癌のため死ぬ。51歳。

時代を駆け抜けた風雲児だった。

最後の言葉は

「フランス、軍、ジョゼフィーヌ

と伝えられる。

 

 

(もう少し続く)

 

 

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