ナポレオンとベルナドット8[第1,130歩]

長かった二人の話もようやく終わりです。

最後まで読んでいただいて有難うございます。

 

ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット1763年 - 1844年

スウェーデン国王カール14世ヨハン(在位1818年1844年)

 

カール14世ヨハン

 

ノルウェー統合によりカールの人気は絶大なものとなった。

1818年、カール13世の死去を受けて 

5月11日、55歳のカール・ヨハンは戴冠式を行い、カール14世ヨハンとなる。

スウェーデンノルウェー連合王国の国王である。

だがカールは自分が議会によって選ばれた統治者であることを

終生忘れなかった。

 

1810年にカールが統治を始めた頃、国が危機的状況だったことは

先に述べた通り。

彼は懸命に事態打開に取り組んでゆく。

 

イギリスとの貿易再開や、ノルウェーとの統合により

物資の流通量が増えたことは、経済的によい効果を及ぼした。

またカールは国家財政の健全化を図るため、自分の個人資産を

対外債務の支払いに充当し、債務をかなり減らすことができた。

食料不足を解決しようと土地の開拓・改良を進め、農機具の普及を図った。

鉄鋼業にも力を入れて生産量を大きく増大させた。

 

この結果、のちの1836年頃には財政の健全化を達成することになる。

スウェーデンは危機を乗り越えただけでなく、カールの治世の間に

大きく発展することになったのである。

 

他にも

ノルウェー銀行の設立

道路などインフラの整備

学校の建設

医療制度の充実

宮廷のしきたりの簡略化

など、カールの改革は多方面にわたった。

 

これらの改革のためカールは日常的に国民と対話している。

彼の治世の間に、引見した国民の数は延べ2万人以上とされる。

 

外交方針は中立を基本とした。

また自国の領土は維持するが覇権は求めないとし、

これは従来のスウェーデンの領土拡張政策を転換するものとなった。

カールはとくに英露の対立に巻き込まれないように

自国の軍備を充実させながらも、中立の立場を維持することにつとめた。

この武装中立主義はそののちも永く

スウェーデンの外交方針の柱となるのである。

 

1821年、ナポレオンが死去したとき、スウェーデンノルウェー民衆との

対立に苦慮していた。

カール自身はノルウェーの民衆からも高い人気を得ていたが、

国王の閣僚や官僚は不人気で、何かと糾弾されていたのである。

 

ーナポレオン、国王という仕事は難しいものだなー

 

最後にこの人の話をしよう。

 

デジレ・クラリー(デジデリア)

 

1810年デジレ・クラリーは、夫のベルナドットがスウェーデン王太子

なると同時に、王太子になってしまった。

そしてスウェーデンに行かねばならない、と知ったときは動揺した。

彼女はそれまでフランスを離れたことがなかったのだ。

 

1810年12月、デジレが冬のストックホルムに着いたとき、

そのあまりに厳しい気候に驚いている。

温暖な気候で育ったフランス人なのだから無理はない。

 

裕福な商人の家に生まれたとはいえ彼女も元々平民だ。

当時の厳格な王室のしきたりにもなじめなかった。

 

結局デジレは、翌年の夏にフランスに戻ってしまう。

そして夫が王位に就く1818年になってもパリに滞在し続けた。

 

1822年、息子のオスカルが花嫁候補を連れてきた。

相手はあのジョゼフィーヌの孫のジョゼフィーヌ。ちょっとややこしい。

 

もと皇后のジョゼフィーヌはナポレオンと結婚したときに

すでに連れ子(兄妹)がいたが、その兄ウジェーヌの娘である。

ちなみに妹オルタンスの子供がのちのナポレオン3世だ。

 

オスカルは、一緒に父王のもとに行ってほしい、と言う。

 

息子はスウェーデン王太子なのだとあらためて思いだし、

デジレは観念した。

ーもう自分勝手なことは許されない。

息子のために、ともにスウェーデンに行きましょうー

 

1823年6月、3人はカールと再会した。

どんな会話があったかはわからない。

 

オスカルはスウェーデン語をすぐに覚え

日常語の片言しか話せなかった父王の助けをするようになる。

そしてデジレは残りの人生をスウェーデンで過ごすことになるのである。

 

1829年8月21日、デジレはスウェーデン王妃として戴冠する。

彼女の公称は「デジデリア」

ナポレオンの婚約者だった彼女は、皇后にはなりそこねたが、

王妃になったのである。

 

多忙な夫であったが夫婦仲は良かった。

 

デジレは寝る前に「夜の散歩」として王宮の周りを散歩するなど、

型破りな行動をしてまわりをしばしば驚かせた。

だが彼女は本来、明るく朗らかな性格であり、

すぐに民衆にも親しまれるようになる。

慈善活動に熱心であり、ダンスも好きだったという。

 

1844年3月、カール・ヨハンが死去する。

波乱に富んだ81歳の生涯だった。

オスカルが跡を継いでオスカル1世として即位。

デジレは太后となる。

 

オスカル1世

 

デジレが王太后になって10年、

ストックホルム市内にカール・ヨハンの銅像が建立される。

彼女はそれを見て言った。

「まあカール、あなたはなんと美しいんでしょう!」

 

1860年12月、夫とともに激動の人生を送ったデジレも死去。

83歳だった。

カトリック式の葬儀が営まれ、夫の棺のそばに埋葬された。

 

 

オスカル1世の子孫はベルナドッテ王朝として

現在のスウェーデン王室に続いている。

 

 

(了)

 

 

参考文献 Wikipedia

「ナポレオンを創った女たち」安達正勝

「彼も人の子ナポレオン」城山三郎

ノルウェーの歴史」ステーネシェン、I・リーベ ほか

写真は主にWikipediaから借用させていただきました。

 

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