ナポレオンとベルナドット2[第1,124歩]

さてもう一人の兵士の話をしましょう。

ナポレオンとはあるときは協力してともに戦い、

あるときは反目しあいます。

 

ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(1763年ー1844年)

フランスの軍人、政治家

 

ベルナドット

 

ベルナドットはナポレオンに先立つ6年前、

1763年にフランス南部ポーにて弁護士の息子として生まれた。

15歳になり地元の法律家のところへ見習いとして働きに出ている。

 

1780年9月、軍人になることを決心したベルナドットは、

親の反対を押し切って入隊する。

とんとんと出世し、5年後に軍曹になった。

長身で見栄えが良いことから、美脚軍曹とあだ名されるようになる。

 

1788年6月、ベルナドットの連隊がグルノーブルに駐留していた時に、

そこで起きた市民暴動に対し曹長として制圧にあたった。

この暴動はのちにフランス全土を覆う革命につながっていった。

 

時は流れて1794年。

この年はロベスピエールジャコバン政府が倒された年であり、

またナポレオンがイタリア方面軍の司令官となった年でもある。

ベルナドットはフリュールスの戦いにて目覚ましい働きを見せ、

少将に、ついで中将に昇進する。

革命軍の中では最高位である。

平民出身である彼のこの目覚ましい出世も、革命前では

ありえなかったことだ。

 

ベルナドットは規律を厳格に重んじた。

だが一方、兵士たちの食料補給や傷病兵への対応など、

部下の福祉にも気を配っていた。

なので兵士たちに慕われていた。

 

1795年の冬、ベルナドットの師団が

バート・クロイツナハを占領した際に、数名の兵が略奪をしてしまった。

この時代多くの将軍は、陥落させた街で部下たちが略奪や暴行をしても

放置していた。

だがベルナドットは違った。

この時有罪者を罰し、被害を受けた家々には弁償をしている。

これは当時にあってはとても珍しいことだった。

彼はこう言っていた。

「規律のない軍隊は勝利を手にしても、その勝利を活かすことができない」

 

1797年になり、

ベルナドットはオーストリア軍と対峙しているナポレオンを支援するために、

ロンバルディアに向かうこととなった。

 

ベルナドットは約2万人の兵を率いて、アルプスを越えてトリノに到着した

厳冬期の猛吹雪の中、大軍を率いてアルプス越えを無事成功させたことは

驚くべき功績だと賞賛された。

 

1797年2月、ベルナドットの軍ミラノに入城した。

3月、マントゥアにて軍総司令官のナポレオンと初対面を果たす。

このときナポレオン27歳、ベルナドット34歳。

「よく来てくれた、ベルナドット。大いに期待しているぞ」

ナポレオンは歓迎してくれた。

 

ナポレオンの部下となったベルナドットはその後、オーストリアに進撃し

つぎつぎと勝利を収めた。

 

1797年4月、レオーベンの和約にて停戦の合意がなされたあとは、

ベルナドットはフリウーリ州の総督に命じられた。

領土を統治する能力は軍事能力とは異なるが、ベルナドットは

この行政能力にも長けていたようだ。

 

さてベルナドットとナポレオンの関係だが、当初は友好的だったが、

この戦役を経てしだいに冷え込んで行く。

ベルナドットはナポレオンが時折見せる非情さが気に入らなかったのだ。

一方のナポレオンは、ベルナドットの振る舞いが偽善的ではないかと

思い、反感をいだくようになった。

 

1798年1月、ベルナドットはウィーン駐在フランス大使に任命される。

だがベルナドットは、この人事は追放同然だとして不満に感じたという。

 

パリに戻ったベルナドットは住居を構え、役職につくことなく休養をとる。

この時期、ナポレオンの兄ジョゼフ・ボナパルトと親睦を深め、

その縁でジョゼフの妻の妹に当たるデジレ・クラリーと知り合う。

彼女の父親はマルセイユの裕福な絹商人だった。

8月、2人は結婚する。

ベルナドット35歳、デジレ20歳。

 

デジレ・クラリー

 

この結婚でベルナドットとナポレオンは親類になったのだが、

じつはデジレはかつてナポレオンの婚約者だった。

あのマルセイユの婚約者」だったのである。

婚約をナポレオンに一方的に破棄されたデジレは、彼に良い印象を

持っていなかった。

デジレがベルナドットとの結婚に同意したのは、

彼が「決してナポレオンに屈しない人物だ」と知らされたからという。

この結婚はベルナドットに、のちに大きな幸運をもたらすことになる。

翌年に一人息子のオスカルが誕生している。

 

1799年3月、再びフランスと対仏大同盟諸国との戦争が勃発した。

フランス軍は苦戦、出陣したベルナドットも健康を害し、パリに帰還した。

軍の立て直しが必要と感じた政府は、ベルナドットを陸軍大臣任命する。

 

大臣ベルナドットは、軍の立て直しに精力的に取り組んだ。

軍隊機構の能率化を図っただけでなく

兵士への医療サービスなど改善策を多く実行した。

するとベルナドットは兵士たちの熱狂的な人気を得ることになり、

今度はそれを警戒した政府要人らの策謀によって、

彼は陸軍大臣の任を解かれてしまうのである。

 

1799年、ナポレオンがブリュメール18日のクーデターをおこし、

政権を掌握したとき、ベルナドットはこれに反対して参加しなかった。

だがナポレオンは、反対者であろうとベルナドットを即時に排除することは

なかった。

今やベルナドットはボナパルトの一族だったし、何よりもナポレオンは

彼の実力を評価していたのだ。

 

ところで第一執政となったナポレオンにとっては

対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務だった。

 

まずはイタリアの再獲得を目指した。

ナポレオンはアルプス山脈サン・ベルナール峠で越えて

北イタリアに入る奇襲策を計画。

 

戦いへ出立する前に、ナポレオンはベルナドットに対して言った。

もし自分の身に何かあったら君が政権を引き継いでくれ、と。

万一に備え、ベルナドットに一族の保護者の役割を期待したのだ。

 

アルプス越えのナポレオン(ダヴィッド画)

 

1800年5月、不可能と言われたアルプス越えを行い,

ナポレオンは北イタリアを奇襲した。

6月のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に勝利する。

1801年2月にオーストリアはリュネヴィル平和条約を結ばされた。

その結果、ライン川左岸はフランスに割譲となり、北イタリアは

フランスの保護国となった。

続いてフランスはロシアとパリ条約を締結。

1802年3月のアミアンの和約ではイギリスと講和をしている。

 

当面の敵と講和できたことで、こののち3年ほどは戦争のない時期が続く。

 

平穏なこの時期、ナポレオンは内政に注力した。

フランス銀行、証券取引所の設立。 

レジオンドヌール勲章を創設。

さらには国内の法整備にも取り組み1804年には「フランス民法典」、

いわゆるナポレオン法典を公布した。

また教育改革交通網の整備を推進した

 

だがその一方で、反体制の勢力には容赦せず弾圧した。

ナポレオンは次第に独裁色を強めてゆく。

 

1802年8月には、憲法を改定して自ら終身執政となる。

実質的な君主といっていい。

 

ベルナドットは西部方面総司令官だったが、

国務院議員でもあったため、ほとんどパリで過ごしていた。

そしてナポレオンに対し、あからさまな批判を行なったものだから、

両者の関係は緊張してゆく。

 

ナポレオンが皇帝に就こうと考えた1804年春の時点でも

ベルナドットはナポレオンに批判的だった。

だがその年5月、ベルナドットはナポレオンに招かれて説得されるのだ。

「味方になってほしい、革命の精神を守るにはフランスを帝政に

するしかない、と思っている」

これに対しベルナドットは、

「たしかにあんな共和政に戻ることは考えられない、協力します」

とついに約束した。

 

ナポレオンは国民投票を経て、12月2日、

ノートルダム寺院戴冠式を行い皇帝となった。

 

フランス革命は王政を廃止して共和政を目指すはずだったのに、

なぜいまさら彼が皇帝になるのか不思議なところである。

この質問に対してナポレオンの言い分はこうだ。

「わたしはかつての王とは違う。

神に認められた王ではなく、国民に選ばれた皇帝となるのだから。

共和国の精神を守るための存在が皇帝なのだ」

うーん、よくわからん。

 

国民投票を行ったのはそのためだが、

記名投票だから、反対票を投じるには相当覚悟が必要だったはずだ。

賛成357万票、反対9千票。

圧倒的な結果だった。

 

なお和解したベルナドットはハノーファー総督に任じられ、

さらにナポレオンの即位と同時に帝国元帥の称号を与えられた。

 

ナポレオンの戴冠(ダヴィッド画)

 

作曲家のベートーヴェンは、かねてよりナポレオンのことを

「人民解放の英雄」として讃えていた。

この時期、交響曲三番を書き上げていたが、ナポレオンに進呈しようと

表紙に献辞を書き入れていた。

ところが彼の戴冠を聞き、「彼も俗物にすぎなかったか!」と叫び、

その献辞の名前をペンで消してしまったという。

その交響曲「英雄(エロイカ)」というタイトルで知られている。

 

ベルナドットはハノーファーの総督として

1804年から翌年春まで公正に統治しただけでなく、この期間市民が

飢餓に見舞われたときには、組織的に穀物を輸入、救済にあたった。

彼は軍事力だけでなく行政力においても高い評判を得ることになった。

 

この頃のベルナドットは、

後嗣きがいないナポレオンの後継者とまでみなされていたのである。

 

 

(続く)

 

 

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