ナポレオンとベルナドット3[第1,125歩]

ナポレオンはそれまで祖国防衛の戦争をしてきましたが、

皇帝になって以降は、次第にその戦いは侵略の色合いを深めてゆきます。

勝利を重ねた軍人は歯止めが利かなくなるのかもしれませんね。

 

ナポレオン・ボナパルト(1769年-1821年 )

フランスの軍人

皇帝ナポレオン一世(在位:1804年-1814年、1815年)

 

ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット1763年 - 1844年

フランスの軍人、元帥

ポンテ・コルヴォ公

 

 

ナポレオンはドーバー海峡に面したブローニュに大軍を集結させた。

イギリス上陸を目指したのである。

イギリスはこれに対してオーストリアロシアなどを引き込んで

ふたたび同盟を結成し対抗する。

1805年10月、

フランス・スペイン連合軍は、ネルソン率いるイギリス海軍の前に

トラファルガーの海戦で完敗したため、イギリス上陸作戦は失敗に終わる。

 

ネルソン

 

トラファルガー海戦

 

しかしフランス軍は陸戦では強い。

トラファルガー海戦と同時期のウルム戦役では快勝。

その後はほとんど抵抗を受けず

ナポレオンはウィーンのシェーンブルン宮殿へ入城した。

 

オーストリアのフランツ1世は北に逃れた。

その救援に来たのがロシアのアレクサンドル1世

 

アレクサンドル1世

 

オーストリア・ロシア連合軍は

ウィーン北のアウステルリッツでナポレオン軍を待ち構えた。

そして戦闘が始まったのは、おりしもナポレオン即位1周年の

1805年12月2日だった。

このアウステルリッツの戦いは、三人の皇帝が会したことから

三帝会戦とも呼ばれる。

ここはナポレオンが巧みな戦術で勝利した。

戦後はフランス・オーストリア間で和平条約が結ばれ

フランスは多額の賠償金と領土を得た。

 

アウステルリッツの戦い

 

ベルナドットは第一軍団を率いてこの戦役で功をあげた。

翌年の1806年6月、ベルナドットはポンテ・コルヴォ公に任じられる。

 

この1806年もナポレオンはプロイセン王を追って、

ポーランドプロイセン・ロシア連合軍に戦いを挑んでいたが、

イエナとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍に大勝し、

ベルリンを占領した。

そしてここで11月、大陸封鎖令を発することになる。

 

この大陸封鎖令というのは、欧州諸国とイギリスとの貿易を禁止して

イギリスを経済的な困窮に落とし、フランスの市場を広げようと

目論んだものだ。

だが密輸が横行したりして、思うほどイギリスは困らなかった。

かえってイギリス製品を輸入していた国々や、フランス国民の

不満を買うことになる。

 

1807年2月、アイラウの戦いと6月のハイルスベルクの戦いでは

ナポレオン軍は苦戦したが、同年6月のフリートラントの戦いでは

大勝する。

ティルジット条約で、ロシアとは大陸封鎖令に参加させることのみで

講和したが、プロイセンには49%の領土を割譲させ、かつ多額の

賠償金を負担させることに成功する。

 

ベルナドットはこの対プロイセン戦役において、

1806年11月、リューベックを攻撃し、プロイセンの将軍たちを捕虜とした戦功をたてた。

リューベックの戦いである。

 

リューベックの町はフランス兵の暴行や略奪の対象となりかけた。

だがベルナドットは略奪を厳しく禁止して、市当局から感謝された。

 

プロイセン軍の援軍として来ていたスウェーデン兵1,500も

ベルナドットに捕捉されたが、ベルナドットは彼らを丁重に扱い、

彼らを母国に返すように命じた。

さらにスウェーデン軍の指揮官グスタフ・メルネル伯爵

ベルナドットの宿舎でもてなしを受けた。

 

ベルナドットはメルネルと話をして

スカンジナビア半島の情勢に興味を示したらしい。

「なるほど、ノルウェーデンマーク領なのですね?

地政学的にノルウェースウェーデンと国境を接しているのだから、

私は両国が一つになったほうがいいと思うが」

 

スェーデン軍人たちは感銘を受けた。

帰国後、ベルナドットがいかに公正にリューベックの治安維持に

取り組んだかを周囲に話した。

 

ただベルナドットがスウェーデン軍を無傷で帰還させたことは

ナポレオンの不興をかった。

ベルナドットはこののちしばらく謹慎状態になってしまうのである。

 

ヨーロッパの中央部分をほぼ制圧したナポレオンは

兄のジョゼフを南イタリアナポリ国王

弟のルイをオランダ国王

末弟のジェロームをオランダ東のヴェストファーレン国王

に任じた。

能力など考えない同族人事だった。

 

またナポレオンはプロイセンオーストリアに対抗するために

ドイツ諸国を連合してライン同盟を結成する。

これにより実質的に神聖ローマ帝国は消滅してしまう。

 

こうしてナポレオンはヨーロッパの中央部分をほぼ制圧した。

この頃がナポレオンの絶頂期とされる。

 

ナポレオン戦争時のフランスの領土



1805年5月、ナポレオンはスペインの王位をめぐっての内紛に介入した。

ナポリ王に就けていた兄ジョゼフを今度はスペイン王に就けた。

これは侵略と言われても仕方がない。

スペイン国民の反発は大きく、各地で反乱がおこる。

ナポレオン軍のスペイン人虐殺を描いたゴヤの絵画は有名である。 

 

マドリード、1808年5月3日ゴヤ画)

 

マドリード市民が蜂起した7月、フランス現地軍が降伏してしまう。

皇帝に即位して以来、ヨーロッパ全土を支配下に入れてきた

ナポレオンにとって、陸戦での最初の敗北だった。

8月にイギリスがポルトガルとの同盟により参戦したため、

この紛争は半島戦争に発展してゆく。

 

 

(続く)

 

 

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