ナポレオンとベルナドット5[第1,127歩]

ついにナポレオンと袂(たもと)を分かったベルナドット。

そして二人の立場の違いが鮮明になってゆきます。

 

ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット1763年 - 1844年

スウェーデン王太子カール・ヨハン

 

ナポレオン・ボナパルト(1769年-1821年 )

皇帝ナポレオン一世(在位:1804年-1814年、1815年)

 

スウェーデンの摂政として、あるいは陸海軍の総帥として

国のかじ取りを始めたカール・ヨハンだったが問題は山積していた。

彼が来た頃はスウェーデンはヨーロッパの最貧国のひとつだったのだ。

 

スウェーデンは国家破綻の危機に陥っていた。

度重なる戦争のため対外債務が大きな負担となっていた。

またインフレーションが進行し、食料不足もあって人々は苦しんでいた。

 

またロシアとの戦争で敗けて失ったフィンランドの領土回復問題もあった。

カールはロシアから領土を奪回するのはまず困難と判断、

むしろノルウェースウェーデンと統一するほうがよいと考えた。

そのためイギリス、ロシアとの接近を図ろうとした。

 

だがナポレオンからは、大陸封鎖令を厳守しイギリスと戦え、と指示してくる。

カールはナポレオンとの関係を見直さなければならない、と考えるようになった。

 

おりしもロシアのアレクサンドル1世1810年に大陸封鎖令をやぶって

イギリスと貿易を再開している。

カールはアレクサンドル1世と文通を重ねて、親しくなっていった。

 

アレクサンドル1世

 

1812年になった。ナポレオンは大陸封鎖令に従わないロシアを討つため、

6月23日、61万の軍勢でロシアに進撃する。

20か国軍ともいわれる大部隊だが、45万のフランス軍が遠征軍の中心で、

同盟軍が残りを形成していた。

 

ナポレオンは進撃後、すぐにロシアから降伏の手紙が来るものと思っていた。

ところがいくら待ってもアレクサンドル1世からの手紙は来ない。

 

アレクサンドル1世はナポレオンではなく、ナポレオンの戦術を知りつくした

カールと手紙のやりとりをしていたのだ。

 

この手紙の中で、カールはアレクサンドル1世を励まし

フランス軍は現地調達をする、だから彼らをどんどん奥地に引き込みなさい」

と助言を与えた。

 

ロシア軍はナポレオン軍と戦ってはすぐに退却する。

その際には必ずナポレオン軍の進行路に火をかけた。

するとナポレオン軍は現場で食料などを調達できず、出発時に用意した

食料が次第に乏しくなっていった。

 

荒野を進む行軍から脱走者が相次ぐ。

モスクワに迫る9月7日のボロジノの戦いのときには、

開戦前からの兵力が1/3になっていた。

激戦にかろうじて勝利して9月14日、モスクワに入城したナポレオンは驚く。

モスクワはもぬけの空で、誰もいなかったのだ!

 

そしてその夜、ロシア兵により市内に火を付けられて、大火となった。

火は7日間燃え続け、モスクワは街の7割が灰となった。

ナポレオン軍はここでも結局補給を受けることが出来なかった。

 

ナポレオンはここでついに敗戦を悟った。

もうすでに軍は10万人にまで減ってしまっている。

退却を始めたが、すでに9月の半ばを過ぎており、冬が迫っていた。

 

この年は世界中で噴火が相次ぎ、気温が低下して早い冬の到来となった。

夏服で進発したナポレオン軍は、零下22度の寒さのため消耗を余儀なくされた。

ここにコサック兵の攻撃を受ける。

 

ロシアからの敗退

 

「私はいつも大きな力に守られていた。その私がなぜだ?」

 

ナポレオン軍は敗退を重ねた。

当初61万人で進発したのに

ロシア国境まで生還した兵はわずか5千人にすぎなかったという。

 

 

(続く)

 

 

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