ナポレオンとベルナドット4[第1,126歩]

1810年はベルナドットにとって運命の年となります。

彼は大きな決心をすることになります。

 

ナポレオン・ボナパルト(1769年-1821年 )

フランスの軍人

皇帝ナポレオン一世(在位:1804年-1814年、1815年)

 

ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット1763年 - 1844年

フランスの軍人、帝国元帥

ポンテ・コルヴォ公

 

ベルナドット(ポンテ・コルヴォ公)

 

1809年、スウェーデンではロシアとの戦いに敗れ、フィンランド

割譲させられていた。

そのため怒った軍人たちが国王のグスタフ4世アドルフに対し

クーデターをおこして、彼を国外に追放した。

そして国王の叔父であるカール13世が新たに王位に就いたが

彼は老齢でありその嗣子がいなかった。

そこでデンマークのアウグステンブルク家のカール・アウグストが

王太子に選ばれるが、彼は事故死してしまう。

1810年5月のことである。

そのため、スウェーデンでは王位継承者を誰にするか、の問題が

おこっていた。

 

カール13世と枢密院はまず、アウグステンブルク公を王太子

第一候補にした。

そしてそのことは欧州の支配者であるナポレオンにも意向を伺ったほうが

良いだろうと、使者をパリに派遣する。

この使者の一人メルネルこそ、かつてリューベックにて

ベルナドットのもてなしを受けた、あのメルネル伯爵の従兄弟だった。

 

パリに着いたメルネルは、

王太子には対仏関係を強化できる人物が望ましい

そしてベルナドットこそ王太子にふさわしい人物だ、と考え

独断で彼に会うことにした。

 

1810年6月25日、メルネルはベルナドットと面会した。

 

そしてスウェーデン

ボナパルト家とつながりがあり、跡継ぎになる息子をお持ちの有能な人物」

を必要としているのです、と告げた。

 

さらにメルネルは、スウェーデン国内においてベルナドットが、

リューベックでスェーデン兵たちを寛大に扱ったことや

スウェーデン攻撃を控えたこと、

北ドイツで人道的な統治をおこなったこと

で有名であり、

「あなたほどふさわしいお方はいません、

ぜひともスウェーデン王太子になっていただきたい」

と告げたのである。

 

「私は平民出身だ。国王のあと継ぎになるなどありえない」

ベルナドットは半信半疑だったが、メルネルの話には心を動かされた。

結局、ナポレオンが許せば自分としては差しつかえないが、と返答した。

 

7月に帰国したメルネルは独断で行った候補者探しをとがめられたが、

彼のベルナドット擁立計画は、軍人たちを中心に支持者が増えていった。

カール13世は世論の高まりを見て、議会の採決が下りる前に

ベルナドットを王太子にすることに同意した

 

そしてついに1810年8月21日のスウェーデン議会で、満場一致で

ベルナドットが次期王位継承者として採決される。

 

聞いたベルナドットは感動した。

ーこんなことがあるだろうか。

わたしのような平民の出身者がこのような高位を望むなど

正気の沙汰とは思えない。

だが、スウェーデンのような国から信頼を与えられたことに

わたしはとても感動しているー

 

そして決心した。

ーこの栄誉にリスクが伴うことで背を向ける人間がいるとしたら、

その者はきっと臆病者に違いない。

わたしがもし王太子に選ばれるのならば、スウェーデンの君主を崇敬し

国民を尊重しよう。

規律を重んじ人々をいつくしむ。このことを約束しようー

 

聞いたナポレオンは、最初は反対だったが結局は賛成する。

これで厄介な人間を遠ざけることができる、と割り切ったのだろう。

 

スウェーデンに向けて出立する前、ベルナドットはナポレオンと面会した。

そして「フランス人としての国籍と義務から解放する証書」を

ナポレオンから得ようとした。

それに対してナポレオンは、

解放証書に「決してフランスに敵対しない」の一文を差し込もうとした。

だがベルナドットは

スウェーデン王太子として選ばれた以上、自身を外国に隷従させる

いかなる取り決めも受け入れることは出来ない、

と拒絶した。

憮然としてナポレオンは言った。

「ならば行け!それぞれの運命を完遂しようではないか」

これが二人の最後の対面となった。

 

ベルナドットは9月にパリを出立、

10月19日にベルナドットはデンマークにてプロテスタントに改宗した。

 

10月30日にはスウェーデンドロットニングホルムにて

ベルナドットは国王カール13世と王妃に面談する。

ふたりはベルナドットに良い印象を抱いた。

面談のあと国王は側近に言った。

「彼を選んだことはわしにとって危ない賭けだった。

だがわしは賭けに勝ったようじゃよ」

 

11月2日、ストックホルムに到着。

11月5日には名前をカール・ヨハンに改めた。

そして同日、スウェーデン議会にて所信演説を行っている。

 

一方のナポレオンはこの頃どうしていたか。

ナポレオンはこの1810年4月に、オーストリアの皇女マリ・ルイーズ

結婚している。

じつは前年12月に、子供を生めないという理由で、愛するジョゼフィーヌ

離婚していたのである。

皇帝は世襲制とされていたので、ナポレオンには嗣子が必要だったのだ。

 

マリ・ルイーズ

 

だがナポレオンにとってこの離婚は良くなかった。

彼はジョゼフィーヌとの安らぎの時を失い、心に余裕がなくなったのだ。

ナポレオンはスペイン情勢が思うに任せないこともあって、

ますます人の意見を聞かない独裁者になってゆく。

 

 

(続く)

 

 

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