ナポレオンとベルナドット 1[第1,123歩]

二人の兵士がいました。

一人は軍事の天才であり、戦うたびに勝利を重ねます。

時代は強い指導者を求めていました。

 

ナポレオン・ボナパルト(1769年-1821年 )

フランスの軍人

皇帝ナポレオン一世(在位:1804年-1814年、1815年)

 

ナポレオン

 

1769年、コルシカ島で、下級貴族シャルルレティツィアとの間に生まれた。

コルシカ島はもとイタリア領だったが、前年にフランス領になっている。

12人兄弟の4番目であり、小さい頃は腕白でときどき癇癪をおこした。

 

少年の頃のエピソードだが、

友人たちで雪合戦をしたときに彼が一方のリーダーになり、

巧みな作戦で相手チームに勝利したという。 

 

やがてナポレオンは軍人になりたいと考えた。

9歳で単身フランスに渡り、ブリエンヌ軍学校に5年在籍したあと、

パリの士官学校に入学する。

成績は数学が得意だったようだ。

1785年、ナポレオンは砲兵少尉になる。

母親が海軍では戦死するからと陸軍を勧めたらしい。

当時、砲兵は歩兵や騎兵に比べて新しい分野だった。

彼自身がこれからの戦いは大砲が主流になると考えていたとしたら

卓見である。

 

1789年、フランス革命が勃発した。

国王ルイ16世マリー・アントワネット夫妻は処刑され、

革命政府が発足する。

やがて政府の中で急進的なジャコバン派と穏健的なジロンド派

対立を始める。

一方では市中にはまだ王政復古をはかる王党派がいた。

さらに諸外国は国王を処刑したフランスを敵視するようになり、

情勢は混迷を深めていく。

 

だが当時のナポレオンは革命自体にはほぼ無関心だった。

関心はコルシカ独立のことだけで、休暇をとっては里帰りしていた。

そのうちに情勢が変わった。

コルシカの人々がイギリスとの同盟を望むようになったのだ。

このためナポレオンと彼の家族はコルシカ島から追放され、

マルセイユに移住したのだった

 

1793年、ナポレオンは大尉に昇進し、トゥーロン攻囲戦に加わった。

前任者が負傷したので、新たに砲兵司令官になり少佐となる。

 

当時の情勢としては、

フランス革命政府」対「王党派ら反革命勢力」

および

フランス革命政府」対「対仏大同盟諸国」の図式であった。

 

トゥーロンは近代的な城郭を備えた港湾都市だったが、

この頃イギリスやスペインの支援を受けた反革命勢力が占拠していた。

フランス軍は有能とは言えない将軍のもと無謀な突撃を繰り返し、

大損害を被っている状況だった。

 

ここでナポレオンは

「まず港を見下ろす二つの高地を奪取するのです。

そこから港内の敵艦隊を砲撃すればよいではありませんか」

と進言した。

 

この作戦が採用され、豪雨の中作戦は決行された。

ナポレオンは高地を占拠して、外国艦隊に砲撃を加え追い払い、

反革命軍を降伏させる。

これは日露戦争時の203高地の戦闘を想起させる。

いつの時代も優れた戦術は通用する、といったところか。

 

ナポレオンはこの功績により、一挙に准将に昇進する。

このとき24歳。

革命以前の体制では下級貴族の子供が将軍になるなど

考えられないことだ。

革命時の混乱が生んだ史上最年少将軍の誕生だった。

 

この頃はジャコバン派ロベスピエールが、反対派を次々に粛清する

恐怖政治を行うようになっていた。

1794年、ロベスピエールテルミドールのクーデターで失脚して

総裁政府が生まれたとき、ナポレオンは一旦は軍務から外され、

降格処分となる。

ナポレオンはロベスピエールの弟、オーギュストとつながりがあったのだ。

 

だが翌年、パリにおいて王党派ヴァンデミエールの反乱が起きたとき

ふたたび採用される。

 

対応に苦慮した司令官は、実際の鎮圧をナポレオンに一任したところ、

彼はパリ市街で一般市民に対しても砲撃を行い鎮圧に成功する。

彼はこの功により、26歳の若さでフランス軍総司令官になった。

 

1796年、もと子爵夫人で未亡人だったジョセフィーヌと結婚する。

ナポレオンのほうがジョセフィーヌに夢中になってしまったのだが、

彼にはそのときマルセイユに婚約者がいたのだ。

だがパリの社交界の中でこのことをすっかり忘れてしまったようだ。

ひどい話である。

 

ジョセフィーヌ

 

この時期、フランス革命オーストリアが干渉し、フランス革命戦争

勃発した。

国王を処刑した革命はヨーロッパの王侯たちを恐れさせていたのだ。

これに対し総裁政府は、ドイツ側とイタリア側の二方面からオーストリア

攻略する作戦をたてた。

 

ナポレオンはそのイタリア方面軍の司令官に選ばれた。

ドイツ側からの部隊が苦戦したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝。

ナポレオンの戦術はまず砲撃をして打撃を与え、

その後一点集中攻撃により敵を分断させるというものだった。

 

ところで1797年3月3日にナポレオンは一人の将校と出会い、

部下に加えることになる。

彼の名はベルナドット

ナポレオンにとってこのあと非常に重要な人物となるのだが、

このときはお互いに知るよしもない。

 

1797年4月、フランス軍はウィーンに迫り、

ナポレオンは総裁政府に無断で講和交渉に入った。

その結果、戦果として広大な領土を獲得、またいくつもの衛星国を建設し、

膨大な戦利品を得た。

12月、パリに帰還したナポレオンは市民の熱烈な歓迎を受ける。

 

さてオーストリアには陸戦で勝利したものの、

対仏大同盟の盟主であるイギリスにはまだ勝利しきれていなかった。

イギリスは強力な海軍を保有していたためである。

 

ナポレオンはイギリスに経済的打撃を与えようと、

イギリスとその植民地であるインドの交易を遮断させようと考えた。

そのために交易の中継地であるエジプトを制圧することを総裁屏府に提言、

これが認められた。

エジプト遠征である。

 

1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸。

そしてピラミッドの戦いで、イギリスと同盟をしていた

オスマンマムルーク軍と戦う。

ナポレオンはこう言って部下たちを鼓舞したという。

「諸君、4千年の歴史が君たちを見下ろしているのだ!」

勝利したナポレオン軍はカイロに入城する。

 

ピラミッドの戦い

 

しかしその直後、アブキール湾の海戦ネルソン率いるイギリス海軍

フランス艦隊は大敗、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまう。

 

12月にはイギリスが呼びかけて、再び対仏大同盟が結成された。

1799年になるとオーストリアにイタリアを奪回されたため、

フランス国民からは総裁政府への糾弾の声が高まってきた。

 

ーフランスが危機だ。私がやらねばならない

ナポレオンは側近だけを連れてフランス本土に帰還した。

 

結局エジプト遠征は何の成果もあげずに終わってしまったと言える。

この遠征中に同行の学者が発見したロゼッタ・ストーンを除いては。

古代エジプト文字解読のきっかけになった重要な発見だった。

 

ロゼッタ・ストーン

 

じつのところ、このナポレオンの帰還は

敵前逃亡罪となるかもしれない危険な賭けだった。

だがフランス国民は歓喜の声でナポレオンを迎えた。

 

そして1799年11月9日、

ナポレオンはブリュメール18日のクーデターを起こし

執政政府を樹立して、自らは第一執政となり独裁権を握ったのである。

 

 

(続く)

 

 

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