*ミントの人物伝その7[第169歩・曇]

人物伝では清々(すがすが)しい生き方をしたと思われる人物を取り上げています。
今回は以前にもちょっと触れたこの人物です。


ミントの人物伝(その7)
立花宗茂(たちばなむねしげ、1567-1643)


安土桃山時代の武将で柳河藩初代藩主。
文武両道の名将である。


大友氏に高橋紹運(たかはしじょううん、1548-1586)という重臣がいた。
彼は斎藤鎮実の妹と婚約していたが
毛利氏との戦いに参戦していて忙しかったため、婚儀が日延べになっていた。
戦いが落ち着いたので改めて申し込んだところ 
斎藤家は「娘が痘瘡にかかってしまった。見苦しい顔になったので婚儀をなかったことにしてくれ」という。
ところが紹運は
「雄武の誉れ高い斎藤家の娘御だからこそ申し込んだのです。辞退するとは承知できません。
それがしは色を好む心で妻を迎えるのではありません」
と言い、斎藤家を感激させた。
この高橋紹運とその妻(斎藤鎮実の妹)が立花宗茂の両親である。


やはり大友氏の重臣立花道雪(たちばなどうせつ、1513-1585)という人物がいた。
別名は戸次鑑連(べっきあきつら)。
若い時に落雷にあい足が不自由になった。
ところが戦闘になると、輿(こし)に乗って最前線に繰り出すものだから
部下は必死で働き、立花軍は無類の強さだったという。


この道雪が紹運に、宗茂を養子に欲しいと申し出た。
紹運は、一人息子で優秀な器量の宗茂を手放すことを悩んだが
結局、大友氏のためにと考え承知する。
紹運は息子を送り出すときに
「もし今後、立花家が高橋家と争いになったときは、立花家のために戦い、我を討ち取れ」
と教え諭したという。


こうして宗茂は2人の勇将の父親を持つことになった。


高橋紹運は1586年(天正14年)、大宰府岩屋城において島津軍と戦う。
わずか763人で約2万人の敵を相手にして大いに被害を与え、家臣ともども全員玉砕する。
享年39歳。
島津軍からも勇猛さを賞賛されたらしい。


宗茂はこれを知り、奮戦して島津軍から岩屋・宝満の2城を奪回し、敗走させる。
その後も豊臣秀吉九州征伐で功績をあげ、彼は秀吉から筑後柳河13万2千石を与えられる。
「その忠義も剛勇も鎮西一」と秀吉は高く評価したという。


慶長の役のとき
彼の勇敢な戦いにより、危機にあった加藤清正小西行長を助けている。
清正は「彼こそは日本軍第一の勇将である」と激賞した。


1958年(慶長3年)、秀吉死去。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦い
宗茂は、西軍が不利であり東軍に付くことを周りからすすめられても
「太閤殿下に受けた恩を忘れてはならぬ。勝敗ではない」
と迷うところがなかった。
彼のいさぎよいところである。


結局西軍は敗ける。
敗軍となった宗茂主従は、九州へ戻る際に島津義弘と共になる。
義弘も名だたる武将。
関ヶ原から壮絶な退却をしてきており、人数も少なかった。
家臣から、「彼は父君の仇(かたき)、少人数だし討ちとっては」と言われても
「敗軍を討つは武家の誉にあらず」
と言って相手にしなかった。
彼のさわやかなところである。
宗茂は義弘を保護し、またその人物を認め交誼を結ぶ。


柳河に戻った宗茂は、加藤清正鍋島直茂黒田如水らの連合軍と戦う。
善戦するが、やがて彼の武勇を惜しむ清正らの説得を受け降伏することになる。
これ以上領民を争いに巻き込みたくもなかったのだと思う。
島津義弘が、地元に戻って援軍を引き連れ、宗茂の元に駆け付ける3日前のことだった。


ついに立花家は改易されてしまう。
城を明け渡し出てゆく時には、領民が泣いて見送ったといわれる。
よほど親しまれていたらしい。


少ない家臣共々浪人となり一時は困窮した。だが援助はあっただろうと思う。
清正や前田利長から仕官の誘いもあったようだが、家臣になることは拒絶したらしい。
さすがに彼の器量を惜しんだ徳川家康から請われたときは断りきれず、
1603年(慶長8年)5,000石で御書院番頭(将軍の親衛隊長)として召し出される。
その後すぐに、陸奥棚倉藩1万石の大名として復帰し、同地で加増を続け
ついに
1620年(元和6年)に柳河藩10万9,200石として完全復帰する。


関ヶ原の戦いで西軍に属し改易されたあと、復帰した大名は他にいない。
よほど清廉な人柄が人に愛されていたのだろう。


宗茂が、もっと権力欲が強くて上手に立ち回れば、大大名になったかも知れない。
しかし彼ほど清々しい生き方をした戦国武将は稀だと思う。


最後に宗茂の晩年の話を一つ。
彼が3代将軍徳川家光の御前で、関ヶ原の話をすることがあった。
関ヶ原では東軍武将の首を一つ一つ討つ存念でした」と述べたので、
家光は「この場で心底をありのまま述べるとは尋常な者ではない」と感心したという。
最後まで気骨を持ち続けた人生と言えるだろう。                   
             

少し長くなりましたが、ミントが一番好きな戦国武将の話でした。


(参考文献)
 Wikipedia 他


岩屋城の碑