*ミントの人物伝その14[第183歩・雨]

台風が近づいています。
週末の山登りは無理のようです。


ミントの人物伝(その14)
栗山大膳(くりやまたいぜん、1591-1652)
福岡藩家老、黒田騒動の中心人物。


1632年(寛永9年)6月
福岡藩主の黒田忠之(ただゆき)に謀反の心有り」という手紙が江戸城に届いた。
差出人は福岡藩家老の栗山大膳である。
家老が主君を訴えるなど前代未聞である。
これが世にいう「黒田騒動」の始まりだった。


福岡藩の祖は黒田孝高(よしたか)。如水(じょすい)の名でも有名である。
初代藩主は黒田長政(ながまさ)
第二代藩主が忠之であり、長政の嫡男である。


ところがこの忠之、
苦労知らずのボンボンで、非常に驕り高ぶった人物だったようだ。

21歳で藩主になると、先代長政の信任厚かった大膳たちを無視するようになった。
足軽上がりの倉八十太夫(くらはちじゅうだゆう)を家老職に取り立てるなど
自分のいいなりになる側近で固め、好き勝手な政治を始めた。
筆頭家老の大膳がいくら諌めても聞く耳を持たなかった。


ついには
幕府の定める禁令、「無断で大型船を建造する」、「多くの藩士を召抱える」ことまで始めた。
このままではやがて福岡藩は幕府に取り潰されるかもしれない。
福岡藩改易の危機であった。


大膳は決心する。
自ら幕府に訴え、荒療治で忠之に反省してもらおう、と。
手紙が幕府に届けられ、忠之と大膳は取調べを受けることになる。


取調べにあたるのは土井利勝(どいとしかつ)
この時期、彼は老中筆頭であり、幕閣で一番の実力者だった。
家康の隠し子といううわさもある人物だが、思慮深く、判断は公正だったといわれる。


利勝は忠之に事実を問いただすが、もともと忠之に謀反の気持ちなどまったく無い。
このような事態になったことに狼狽するだけだったろう。


利勝は忠之に告げた。
「治世不行き届きにつき福岡黒田藩の領土を没収する」
忠之は蒼くなっただろう。


ところがこう続いた。
「ただし反省するならば、先君の功績に免じ、改めて没収した領土をつかわすものとする」


おかしな申し渡しだが、これには裏があった。
実はこの前に、大膳は利勝たちに事情を伝え懇願していた。
「騒動を起こした私を厳罰にしていただくかわりに、藩と主君はお咎めなしにしていただきたい」と。
大膳の藩を思いやる気持ちに感動した利勝らは
福岡藩と藩主忠之は厳重注意のうえ赦し、
大膳は主君を直訴した罪で陸奥国盛岡藩に配流(はいる)、としたのだった。


大膳は配流先の盛岡藩で手厚く待遇された。
流罪ではあったが、百五十人扶持だったので生活に困ることはなかった。
利勝らの配慮があったのだ。


忠之が大膳の真意を理解したかどうかは定かでないが
十分に懲りたことは想像できる。
その後は藩政に真面目に取り組むようになった。


大膳は主君に不忠をはたらいた者として、一部に否定的な評価もある。
いかなる理由があれ、主君に対する裏切りは不忠とされた時代なのである。
しかしあのままでは藩は取りつぶしになっていた可能性が高い。
彼の思い切った行動が成功したと言えるだろう。


盛岡に配流となってしまったが、大膳は満足だったと思う。
福岡藩の危機が回避されたからだ。


彼は62歳で死ぬまで盛岡で暮らした。
彼の子孫や家臣も盛岡に定着することとなった。


大膳の墓所は、彼の忠節を讃えた碑とともに盛岡城下にある。


(参考文献)
 Wikipedia
   Web 他


***最近読んだ本***


柳生十兵衛七番勝負」(津本陽
柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の嫡男十兵衛が主人公。
徳川家の密命を受け、諸国武者修行と称しながら
徳川家に仇なす者を討つ。
時代小説は時々読むが、剣豪小説はあまり読まない。
だから久しぶりだったが、退屈しのぎにはなったかな。


黒竜潭異聞(こくりゅうたんいぶん)」(田中芳樹
中国歴史短編集。
西晋(せいしん)から明までを舞台に
史実に基づいた歴史小説や伝奇小説などがちりばめられている。
非常に面白くて一気に読んでしまった。


九千部山