昔の人は布を織るのに、糸を一本一本継ぎ足して作っていたんですね。
大変だったと思います。
ミントの人物伝(その37)
豊田佐吉(とよださきち、1867-1930)
織機(しょっき)の発明家。
静岡県、現在の湖西市山口で生まれる。
小学校を卒業すると父の大工仕事を手伝うようになった。
長じて郷里が日本全体と同様、貧乏だということがわかってきた。
そして
貧乏をなくすためには、発明により産業を発展させることが大事だ
と思うようになる。
ただ何をすれば良いのかはまだ分からなかった。
20歳を過ぎたある日、佐吉は機(はた)を織(お)る母の姿を見ていた。
機を織るとは、木綿糸から綿布を作ることである。
母親の使っている手機(てばた)では能率が悪く、生産量も少なかった。
−何とか工夫をして、手織りの負担を減らせないだろうか−
1890年(明治23年)、東京で勧業博覧会が開催されたときには、世界の機械を熱心に見る佐吉がいた。
−日本人だってこんな発明が出来るはずだ。わしはきっと能率の良い織機を作ってみせる−
佐吉は寝食を忘れて研究に没頭する。
「男のくせに機ばかりいじっていて変なやつだ」
と陰口されても気にしなかった。
1891年(明治24年)、佐吉24歳。
ついに『豊田式木製人力織機』が完成する。
最初に使用してもらったのはもちろん母親だった。
これは従来の手織機の5割増産が可能で、評判になった。
しかし人力ではやはり能率に限界がある。
佐吉は工夫を加えて
1896年(明治29年)には、日本初の動力機械である『木鋳混製動力織機』を完成させる。
高性能のこの機械は、時の大臣までが見学に訪れ、激賞したという。
すぐに多くの大手会社に採用され、
以降、日本の繊維産業は大いに伸張してゆくことになる。
1911年(明治44年)には豊田自動織布工場を設立する。
これは後に株式会社豊田自動織機製作所となる。
佐吉の織機改良の努力は止まらない。
生涯に119件の発明(特許、実用新案権)をしたという。
1924年(大正13年)には集大成ともいうべき『G型豊田自動織機』を作成している。
これは糸がなくなっても自動的に補充する仕組みになっており
なんと1人で50台の織機を受け持つことが可能だった。
この機械は世界一の性能と認められ、イギリスプラット社へ特許を譲渡している。
佐吉は感慨無量だったろう。
日本の技術が世界に認められた瞬間だった。
佐吉の発明により、繊維産業は、大正・昭和を通じて日本の基幹産業となった。
彼の果たした功績は非常に大きかった。
佐吉は自動車にも関心があったらしい。
長男の喜一郎に
「わしは織機でお国につくした。お前は自動車をやりなさい」と言ったという。
佐吉の発明家・企業家精神は、息子に受け継がれ
後のトヨタ自動車の発展へとつながってゆく。
1930年(昭和5年)死去。享年63歳。
日本が生んだ偉大な発明王だった。
(参考文献)
Wikipedia 他
写真はGoogle画像から借用いたしました。
***最近読んだ本***
「安政五年の大脱走」(五十嵐貴久)
スティーブ・マックィーン主演の「大脱走」という映画があった。
この小説はこの映画を下敷きにしているが、なんと舞台は幕末の日本。
無茶苦茶だが痛快、驚愕の娯楽小説。
非常に面白かった。