日本中の期待を背に受けて彼女は泳ぎました。
実況アナウンサーは叫び続けました。
頑張れ、頑張れ、と。
ミントの人物伝(その45−2)
1936年(昭和11年)、ベルリンオリンピックが開催される。
200m平泳ぎに出場した前畑秀子は、順調に決勝まで進出する。
−優勝したい。いや、しなくてはならない−
秀子は大きなプレッシャーを感じていた。
彼女はこの前年に世界新記録を出していて、好調ではあったが、
かえってそのために、優勝候補として日本中の期待が集まっていた。
決勝には地元の強豪ゲネンゲルがいた。
彼女にも負けられない理由があった。
ヒトラーが、オリンピックを国威発揚の手段としてとらえていたこともあり
ドイツ選手の活躍はめざましく、金メダルの数でも他国を圧倒しつつあった。
ところが競泳では、まだ金メダルが獲れていなかった。
ゲネンゲルには当然のごとく、優勝の期待がかかっていたのである。
決勝が始まった。
秀子はスタートから順調に飛び出し、すぐにトップに立つ。
150mまではそのままトップだったが、前半に飛ばしすぎたせいか
スピードが伸びない。
後方からはゲネンゲルがじりじりと差を詰めてくる。
熾烈(しれつ)なデッドヒートになってきた。
テレビ放送などない時代だ。
この決勝の様子は、NHKによりラジオ中継されていた。
実況は、名アナウンサーと呼ばれた河西三省(かさいさんせい)。
日本では深夜零時過ぎではあったが、大多数の人がラジオに聞き入り、熱心に応援していた。
ゴールまであと50m、
河西アナの実況中継の声が次第に興奮してくる。
あと20m、すぐ後ろまでゲネンゲルが迫った。
「前畑頑張れ!前畑頑張れ!頑張れ!頑張れ!前畑頑張れ!・・」
このとき河西アナは20数回、『頑張れ』と絶叫している。
このラジオ放送を聞いていた日本人も非常に興奮した。
名古屋では興奮のあまり、ショック死した人まで出たという。
<200m平泳ぎ決勝>
1位 前畑秀子 日本 3分03秒6
2位 マルタ・ゲネンゲル ドイツ 3分04秒2
日本人女性によるオリンピック金メダル獲得は、彼女が最初だった。
当時の日本は、国際社会の中で次第に孤立化しつつあった時期である。
彼女の活躍は、そのような暗い世相における、久しぶりの明るい話題だった。
表彰台の写真がある。
勝者であるのに長身の秀子はうつむいている。
感極まっていたのだろう。
2位のゲネンゲルが、ナチス流に片手を挙げて敬礼しているのと対照的だ。
秀子は引退し、オリンピックの翌年に兵頭正彦氏と結婚する。
その後は、椙山女学院の職員として後進の指導にあたったり
ママさん水泳教室のコーチを務め、一般への普及を図ったりした。
1964年(昭和39年)その功績により紫綬褒章を受ける。
1983年(昭和58年)に、脳出血で倒れ半身不随となるが
リハビリで復帰し、なおも水泳の普及に努める。
1995年(平成7年)死去する。享年80歳。
国民に希望と勇気を与えた選手だった。
ちなみに秀子は戦後、ゲネンゲルと再会している。
1977年(昭和52年)ベルリンで会い、一緒に50mを泳いだそうだ。
41年ぶりのかつてのライバル同士、何を語ったのだろうか。
(参考文献)
「教科書が教えない歴史」(自由主義史観研究会)
Wikipedia
写真はWikipedia、他から借用いたしました。
[平成23年の記録]
http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231
[平成22年の記録]
http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230