*ミントの人物伝その13[第181歩・晴]

大学時代に司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでこの人のことを知りました。


ミントの人物伝(その13)
下瀬雅允(しもせまさちか、1859-1911)
広島出身の発明家、旧日本海軍の技師。
下瀬火薬を発明し、日本海海戦の勝利に貢献する。


広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男として生まれる。
広島英語学校、工部大学校(東大工学部の前身)を卒業し
1884年明治17年)、内閣印刷局に勤務する。
紙幣用のインキの改良などで功績を上げる。


1887年(明治20年)、友人の勧めもあって海軍兵器製造所に勤務する。
兵器の良し悪しは国の存亡にかかわると考えた下瀬は
火薬の研究をしようと決心した。


従来の黒色火薬は、大量の黒煙が発生するので砲の発射頻度が落ちる。
また綿火薬は無煙だが爆発力が弱い、などの欠点があった。


列強が迫る日本の危機を救おうと、彼は爆発実験で左手を負傷しても研究を続けた。
ついに
1888年明治21年)、爆発力が大きな新しい火薬を発明する。


これはピクリン酸を成分とする火薬である。
ピクリン酸は石炭酸を原料として製造するもので
もともと染料として発明されたものだが、この数年前に強力な爆発性が発見されていた。
ただしピクリン酸は金属と化合してわずかな衝撃で爆発するので
砲弾の火薬として使用すると自爆の恐れがあった。

下瀬は砲弾に自爆防止の工夫をして安全性を高めたのだった。


実は1886年に、フランス人のウジューヌ・テュルパンが
ピクリン酸を使用した火薬「メリニット」を発明している。
その火薬は日本にも持ち込まれたが、予算の都合がつかず購入できなかったらしい。
やはり下瀬火薬は彼の功績だと思う。


1893年明治26年)、この火薬は「下瀬火薬」として海軍に正式採用される。
ただし翌年の日清戦争では実戦に間に合わなかった。
あまりにも強力な下瀬火薬に対応する爆発装置の信管がなかったためである。


やがて伊集院五郎(いじゅういんごろう、1852-1921)海軍大佐が「伊集院信管」を発明し
1900年(明治33年)、海軍に採用される。
伊集院はのちに海軍大将までなった人物だが、非常に博識だったらしい。
「伊集院信管」は砲弾が飛んでゆくうちに、尾部のネジが回転して安全装置が
はずれるのが特徴である。
つまり艦砲から充分な距離をとってから安全装置が外れることになる。
一方、着弾すると非常に敏感であり、どこに命中しても爆発したといわれる。


やがて迎えた日露戦争日本海海戦で、「下瀬火薬」と「伊集院信管」はその威力を発揮する。
下瀬火薬は
砲弾殻を細かい破片にして敵兵の被害を増大させ
爆薬の燃焼温度が3千度以上となったため、着弾した敵艦に火災を引き起こした。

東郷平八郎司令長官の優れた指揮ぶりと合わせて、連合艦隊は大勝利し、バルチック艦隊は壊滅することとなる。


ロシア軍は下瀬火薬の威力に仰天しただろう。
自分達の使用している黒色火薬とは桁違いの破壊力だったからだ。


日露戦争は、日本が大国ロシアを破ったことでヨーロッパ列強諸国に大きな衝撃を与えた。
下瀬火薬は日露戦争における勝因のひとつとされている。
戦争の兵器とはいえ
恵まれたとはいえない環境で、世界的水準の発明をした下瀬は高く評価されて良いと思う。


ちなみに日露戦争後も「下瀬火薬」は旧日本海軍で、太平洋戦争の終戦時まで使われ続けたそうです。


(参考文献)
 Wikipedia
「教科書が教えない歴史3」(扶桑社)
  Web 他
 写真はWebから借用しました。


浅間山